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「ないものは(何か工夫して代わりになるものを)作ればいい」というのはいいことなのだろうか

 

いくら開発途上国といえど、今は2017年
インターネットも普及してるし、船や飛行機等の移動手段も発達してきている。
「現地でまかなえるものを」という見方や考え方はもちろん必要であるが、「(なんとかしてでも)現地でまかなえるものを」という考え方があってもいいのではないだろうか。

私の所属する学校では、時間はかかるがオーストラリアから中古のパソコン(書類作成程度の負荷ならば問題ない)を購入することもできた。
必要だとおもうものがあれば、できる限り現地で手に入るもので代用するべきだとは思うが、クオリティや耐久性等を求めるのであれば、「隊員が仲介となって、モノを手に入れる手はずを整えてもよいのではないか」というのが最近の私の見解。
特に実験で使う器具や薬品なんかは、代用できるものもあればできないものもある。
代用できたとしても、要素が複雑になってしまい、実験としてのクオリティは下がってしまうだろう。
※科学における(基礎的な)実験は、地球上で起こる現象を小さいスケールでできる限り要素を少なくして、単純化したものと解釈している。
例えば、ビーカーに水を入れて、そこに塩化ナトリウムを入れて、水が全て蒸発するまで加熱し続けて、塩化ナトリウムを再結晶させる。という小学生でもやるような実験の場合
ビーカーはある
塩化ナトリウムがないから、食塩で代用
水は純水(イオン交換水)がないから水道水で代用
というパターンが(日本でも)多いと思う。
でも実験としての精度やできる限り複雑な要素を取り去った状態(塩化ナトリウムを使う・イオン交換水を使う等)を考えるならば、「代用」するのではなく、「ホンモノ」を使うべきではないか。
もちろん予算の関係でイオン交換水ではなく、水道水を使うことはあるし、塩化ナトリウムがないから食塩で代用している場合がほとんどである。
けれども
けれども
やっぱりそれは、代用品を使ったイミテーションであって、できる限り「ホンモノ」を観せるべきではないか。
実際にはそうもいかないことが多いのであれば、あらかじめ、「本来なら〇〇を使うのだけれども、今回はこれで代用します」と説明をするべきだと思う。
※一応注釈を入れておくが、工夫して代用品を探すことを否定しているわけではない。代用するなら「何の代わりに使っているのか、影響はどうなのかの様な説明をしてあげるべきだ」という考え。
どうしてそういうことを思ったのかというと、今私はソロモン諸島という日本と比べたら圧倒的に実験器具や薬品がない国の学校で青年海外協力隊として活動していて、理科を一緒に勉強している。
現地の子たちに「実験ってなんでもいいからやったことある?」と聞いたら
「一度もない!!」と全員が声をあげた。
そこで
「実験やってみたい?」
と聞くと
「やりたい!!」 「フォーーーー!!」
とフィーバーしていた。
みんな体験したいのだ。どんなものかはわからないけども、興味はあるのだ。
そこで、「実験をしてあげたい!」という気持ちが強くなると同時に、充分な設備や機器がない中で「どうやって実験しよう」「なんの実験ができるかな」と考える毎日が続いていた。
塩化ナトリウムの代わりに食塩で
BTB溶液の代わりにハイビスカスの絞り汁で
イオン交換水の代わりに水道水(雨水)で
もちろん工夫して、代用を見つけることは素晴らしいことだと思うし、誰にでもできるわけではないことだと思う。
けれども、「代用」したものはあくまで「代用した」ものであって、器具があるならばそれは使わないだろう。
なんで水道水よりもイオン交換水の方がいいのか
なんで食塩よりも塩化ナトリウムの方がいいのか
そういうところを考えていくと、実験っていうのは「できる限り要素を単純化した自然現象の再現」であり、この「できる限り要素を単純にする」ことの意味合いを考えるならば、「ホンモノ」を使ってあげるのがいいんじゃないかなと。
そこで、タイトルのところに戻るのが、
「ないものは(何か工夫して代わりになるものを)作ればいい」というのはいいことなのだろうか
という命題であって、代わりになるもので代用し続けたら、代用のものが「ホンモノ」だと思ってしまう。「それでいいのか」と。
無理をしてでも、輸入してでも、お金がかかってでも、ちゃんとした実験器具を使った方がいいに決まってるし、そうしてあげたい。
だから、代用し続けることに対して疑問を持ったわけである。
読んでいただきありがとうございました。
皆様の意見等伺いたいです。

 

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