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ボランティア活動は「共感」の活動

皆さんは
共感ってなんんだろう
って考えたことがありますか?
時々会話の中で出てくる「共感」という言葉。
ずっと頭の中でモヤモヤしてた時に、たまたまKindleで出会った『プロカウンセラーの共感の技術』という本
今回はこの本の中に散らばる言葉から「ボランティア活動は『共感』の活動」だと納得するまでの過程を綴っていきます。

共感=相手と同じ気持ちになること なのか?

共感っていう言葉を分解して見ると「共」と「感」。つまり、感情の共有って意味になるのかな?
英語だとsympathy
’sym’はギリシャ語のsynから来てて、withとかtogetherとか「一緒に」という意味を持つんです。
’pathy’はギリシャ語のpatheiaから来てて、feeling「気持ち」を意味しています。
英語も日本語もほとんど似たような意味を重ね合わせた共感という言葉。
「一緒の気持ち」「感情の共有」
なんとなく意味はわかりますね!
でも
それが可能なのか。というところが気になります。
果たして
男性は女性の気持ちがわかるのか
女性は男性の気持ちがわかるのか

 「同じ経験をしたことがなくて、相手の気持ちがわかるのか」「異なる生物学的条件を持っていて相手の気持ちがわかるのか」

でも、こうも捉えることができると思うんです。
同じ体験もしくは経験をしていたら相手の気持ちがわかるのか?
例えば、同じアイスクリームを食べても「おいしい」と感じる人もいるし「おいしくない」と感じる人もいるような場合。
同じ「アイスクリームを食べる」という経験でも、「気持ちがわからない」時だってあるんですよね。

 その体験は一人ひとりユニークなもの

 究極的には決して誰にもわかることのできない独自の存在

 つまり私たちは誰しもみな一人

一人ひとり、それぞれも経験はユニークであり、絶対です。双子でさえ「まったく同じ」経験はして来ていないはずです。
それでも「共感されたい」「共感できる」と考えるのは、100%同じ考えじゃないけれども、あなたの考えの一部分は同じだよって意味なのではないかなと。
そんな他の誰からも独立した存在である私たち一人ひとりの感覚の輪があるとして、その輪が大きくなって他の誰かの輪に触れること。それこそが「共感」なんじゃないかなとこの本には書いてあります。
つまり
感覚のどこかがあなたと結ぶつくこと=共感なんじゃないだろうか

ボランティア活動は「共感」の活動

あなたは
目の前で誰かがよろけたりしたらとっさに手を貸しますか?
お年寄りが重たそうなものを持っていたら手を貸して助けますか?
共感にはプラスの面だけではないことをこの本が示唆しています。
例えば、

 いじめられている子のつらさに共感すれば、助けたくなってしまう。そうすると、今度は自分までいじめのターゲットになってしまうかもしれない。厄介なことに巻き込まれることになる。そういうことは避けたい

自分のことを考えるあまり
「他人に対して過度に共感してはいけない」と考えるようになって、現在の競争的な社会やシステムの中で勝ち抜き・生き抜くために「共感」しなくなった人たちがたくさんいるように思えます。
でも、そんなことをし続けていたら孤独になっていくと思うんです。今の日本は便利だし、美味しいものもどこでだって食べれるし、生活のレベルに不自由はしないと思うんです。
東京で働いていた時に通勤途中の電車の車内で、困ってる人がいたらあなたはすぐに手を差し伸べることができますか?「厄介なことには巻き込まれたくない」そう感じて、何もアクションを起こせない自分がいました。
でも
「なんとかしてあげたい」
「何かできることがあるんじゃないか」
そう考えていた自分がいて、「もっと余計なことを考えずに行動できたらいいのにな」なんて悩む時もありました。考えるよりも感じたことを優先して行動できたらなと。
誰かに共感するためには
観察力」…先入観に縛られずに相手をよく見ること
想像力」…相手の立場だったらどう感じるだろうかと想像すること
注意のコントロール力」…自分が感じていることに注意を向けて感じ続けること
表現力」…感じたことを表現すること
この4つが必要だとこの本では述べています。

「共感」とは、常に「受容」とセット

 「受容」とは相手のありようをありのままに受け入れることです。どんなに不合理だと思えても、間違っていると思えても、相手の想いや気持ちをありのままに受け入れること

 このような態度の実現のためには力みを抜くことが大事です

 受容はしばしば、現状肯定だと誤解されます。ありのままmを受け容れるとかありのままを認めるということは「ありのままでいい」と価値判断することではありません。受容には価値判断は含まれません。ただ「現状はこうなのだ」と力まず穏やかに認識するというだけです。

 「本人にしか解決できないことだから一人で取り組ませておけ」ということではなく、一緒に考えてあげることが必要

本の中では引きこもりの少年を例にしています。
ある少年は学校に行かず、引きこもっているとします。そんな彼に学校の話題を持ち出そうとしても黙りこくってしまします。そう。彼にとって学校の話題は避けたいものなのです。
そんな彼の「学校に行きたくないという気持ち」を「受容」して、学校に行かないでもいいと、現状のままを価値判断的に肯定するようになりました。
という話
でも、彼にも気がつかないだけで、「学校サボっちゃった」とか「これからどうしようとか」「こんな自分なんて」なんていう様々な気持ちがごちゃごちゃになっているんだと思うんです。
そういういろんな感覚を含めて「ありのままを受け止める」ことが「受容」であると本の中で語っています。
ここまでの話を整理すると
「なんとかしてあげたい」
「手を貸してあげたい」
と思う気持ちとその状況を受け入れて、行動すること
それらはすべて「共感」という活動の一部だということ
ボランティア活動も同じで、例えばゴミ拾い一つにしても、募金活動にしても、青年海外協力隊の活動にしても、同じようなプロセスを踏むと思うんです。

まとめ

とはいえ、国の制度の中のボランティアとして来ている以上、結果が求められると思うんです。思うというか必要。
たいていは正解などないもので、国によって地域によって現状も条件も違うため、誰も正解を知っているわけでもないし教えることもできない。
でも、この結果って何かなって考えた時に、それは「変化」のことなんじゃないかなと思うんです。
良い方向にも、悪い方向にもどっちの方向にも変化はあると思うんですが、この良い方向(何かしらの状況が改善された)への変化が我々青年海外協力隊にとって求められている「結果」なんじゃないかなと思うんです。
いい方向への変化こそ結果
自分という輪を広げていって、地域の人たちの輪を触れ合って、接する部分が増えていって、これからの活動が充実したものになればいいなと思いました!
これからどんな変化が起きるのかなー!
では!

 

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